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2年間を振り返って - 八戸 由美子 ((有)坂本英俊建築構造事務所)(2006年09月13日 更新)

大学を卒業後、構造設計事務所に入社し、早いもので2年が経過しました。 この機会に、今までを振り返ってみたいと思います。

「カッコイイ家に住みたい」これが私の建築の世界を目指すきっかけでした。

大学入学当初は、意匠の方に興味を持ちましたが、 いろいろな分野を勉強していくうちに徐々に構造の大切さ、すばらしさに惹かれていきました。 建物にとって外観や機能性はもちろん重要ですが、最も重要なのは安全性ではないかと考えるようになりました。

入社した当時は、何もかも初めてのことで、不安でいっぱいの毎日でした。 まず、先輩の指導のもとCADで図面を描くことから始まりました。 初めは、正確におさまりを考えながら図面を描くことに大変苦労しましたが、 しだいに楽しさを感じるようになりました。 そして、仕事にも少し慣れてきた頃、いよいよ構造計算をさせて頂くことになりましたが、 正直なところ戸惑いを感じました。 学生の頃、少なからず構造には自信を持っていたのですが、 実際に計算しようとすると分からない事ばかりで、構造の難しさを痛いほど感じました。 2年たった今でも、分からない事ばかりで、次から次に新しい問題にぶつかります。 しかし、自分で構造計算をして図面を描いたものが、 実際に建物として建ったときには、なんともいえない感動で胸がいっぱいになりました。 それと同時に自分の仕事に対する責任の重さを再認識しました。

振り返れば、今までの私は周りの人達に甘えてばかりいたような気がします。 しかし、もう3年目ともなるとそう甘えてばかりはいられません。 これからは、1日も早く仕事を覚え、自分が担当する仕事に責任を持ち、お客様に満足して頂ける様努力していきたいと思います。

未熟者ではございますが、今後ともどうぞ宜しくお願い致します。

(2001年10月掲載)

うちのウサギが死にました - 岩崎 哲也 (岩崎哲也建築設計)(2006年09月13日 更新)

苦手とする事は多くあるが、なかでも文章を書く事は最たるものです。 「実務現場からの声に一文」と電話を頂き「以前一度書きましたから」と答えると、 「復帰後と言うことで」と押し切られてしまいました。

永く名前だけを残してもらい幽霊会員みたいなものでしたが、 久しぶりに例会に出席してみると、構造協議会もNPOに組織替えになるとこ事、 この私の文章が組織改変後の”栄えある機関誌第1号”の紙面を汚してはと、 心配しつつ最初の文も交えながら書きます。

以前書いたのはどんな事だったかなと思い機関誌を引っ張り出してみると「設計事務所の休日増」と題していました。 「人間生活のコーディネーターたらんとする建築設計屋こそ社会に率先して週休二日とするべきだ」読んでいたら、 どこかちょっとかゆくなってきました。 あっ、そうだその頃構造協議会で「超々高層フォーラム」をやって、自分も裏方で少し手伝ったなー、確か9年前の事です。

休日増、超々高層、これらの言葉に「バブルは、弾けた」と言われながらも、 バブルの勢いがまだ少しは残っているいい時代だったなーと、なつかしく思い出しました。 文章の最後は「フレックスタイム制」「在宅勤務」これらの労働形態は設計事務所に向くのでは、と結んでいます。

昨年1月44歳にして一応「独立」とゆうことににました。 「平均週休4日制」「フレックスタイム制」「在宅勤務」いとも簡単に実現しました。

2台目のパソコン購入に始まり、プリンター、プロッター、スキャナー、etc。 経費削減のために、メーカー及び販売店とサポート契約をしなかったばっかりに、苦労の多い事にはまいってしまいました。

たまる一方のストレスを解消してくれたのは、 5年ほど前から飼っていた、ウサギのイーブイ(子供がアニメのポケモンのなあから名付けた)でした。 しぐさがなんとも愛らしく、見ているだけで心なごむものでしたが先日死んでしまいました。 このウサギは私が設計監理を担当した老人ホームで飼われていたのを、 2つ目の施設が建つ前に生まれて2週間で貰ってきたものでした。 老人ホームではアニマルセラピーとして、犬、猫、ウサギ等が飼われたりします。 ご存知とは思いますが今流行りの「癒し」です。 心が傷ついている訳ではないが、不景気で先行に漠然とした不安に誰もが「癒し」を求めているんだなーと、ふと思いました。

ウサギがいなくなってから、自宅横を通る下校途中の小学生のざわめきが、 こころなしか大きく聞こえるようになった気がします。 その声を聞きながら「ガンバロー、ガンバロー」と2年目の夏です。

(2001年10月掲載)

建築と関わるようになって - 原田 幸一 (原田設計事務所)(2006年09月13日 更新)

意味のある文章になるとよいのですが、高校三年生になってさて何科に進もうかとほんの少し考えて、 実家が鉄工所なので結局工学部建築科に落ち着いた。 高校では物理が苦手だったが、二次試験では幸い無かった。数学と英語だけだった。

大学時代 1980~1984

1年から3年は基本事項の学習であるが具体的でないのでとてもつまらなかった。 4年になり卒論は疲労破壊試験に関することでこれまた多くの時間がかかるわりには変化が少なかった。 研究室にcomodole(?)のPCがおさがりで置かれていた。ちょっとだけさわった。 はやく実務につきたくなり、就職の掲示板を眺めているとたまたま構造担当の募集があり、あっさり設計事務所に就職が決まった。 事務所になじむように月一であそびに行ってPC9801Fを恐る恐るさわって、 参考書の例題の応用プログラムを作ろうとするが巧くいかず就職したらどうなることやらであった。

設計事務所勤務 1985~1998

地元の総勢10名程度の事務所は構造の部門に2,3名が当たっていた。 最初は二次部材の計算書作成、構造図の手伝い(当時は手書き)、 電電公社のDEMOSを使って設計全体へ関わり計算書作成、保護者つきの現場監督を経て、 いよいよ一つの物件をたった一人で担当することになる。 今度はまっさらの状態で構造計画から始まり、 意匠に変更追加をお願いしてなんとか計算が終わると納まっていない意匠との打合せを経て構造図完成、建築指導課への対応、 現場監理では工事が始まると現物の大きさにびっくりした。 もう一回計算をチェックしたくなるがそんな時間は無い。 現場所長から「線一本の大切さ」を教えられたのが記憶に残っている。 鉄骨造、RC造をそれぞれひとつずつ終えるとなんとかなるかなーといい気になってから奥が深いのが技術の世界(どんな分野でも同じことでしょう)。

総合事務所の一番良いところは意匠・設備との打合せ、 図面合わせ(最後の食い違いを無くす)、現場での週一定例会などで耳年増になっていったことである。 会議が多く退屈な時も多かったが建築への理解が深まりとても意義深いと思う。

90年代にはいり構造の先輩と引き換えにCADと一貫計算ソフトが導入された。 困ったことに所内で構造は一人になってしまった。外の構造設計事務所の方と興味深い話が広がり始めた。 9801RSがmyPCだ。所内のPC管理係りは忙しいかもしれないが進んでなりましょう。 あとできっと役に立ちます耐震診断を幾つかこなし、 後輩もできて後はよろしくまたも一人で引き継いでもらっている。

設計事務所開設

まぁなんとかやっています。自己管理が大変ですけど。 最近は大学で知識処理の言語DSPを使った構造計算への応用をやっています。 興味ある方はお気軽に声をかけて下さい。 これからはCGが趣味の世界から脱出すると良いのかどうかわからない。

以上、とりとめなくだらだらと書いてしまいました。  おわり

(2000年10月掲載)

究極の職住接近、在宅ワークの現状 - 村上 裕子 (YM設計室)(2006年09月13日 更新)

我が家は玄関を開けると入り口が2つある。右手の引き戸を開けると約4帖の小部屋がある。 ここがYM設計室の事務所である。ここにA0の製図版を転用した机、パソコン、プロッター、最近コピーまで買った。 多分最小の事務所ではないかと思う。この狭い空間で家事・子育てをしながら、構造計算・構造図作成の業務を行っている。

なぜ在宅にこだわったか。私が不器用な人間で、それなりの母親になってしまったからだ。 女性の社会進出を否定するわけではない。逆を行くようだが、 幼い時にはべったり側にいて甘えさせ、家は暖かい安心できるところ、親は自分たちの味方だと信じさせたいと思ったからだ。

犯罪の低年齢化や子供を狙った犯罪が多発する、はたまたいじめなど、子供にとっては受難の時代だ。 「ただいま」と帰ってきた時には家にいてやりたい。 一日色々経験して、子供なりに疲れたり、傷ついて帰って来た時に「何かあった?」と声をかけてあげたい。 不安な時にはすぐに抱いてやりたい。外に出て働き、家族にも心を配れる人はたくさんいる。 私にはそれが出来ないだけの話だ。

子供とゆっくり向き合えるだろうと思って始めた在宅での仕事だが、誤算があった。 以外に時間の自由がない。集中してはかどっている時に「ただいまぁ」と帰って来る子供たち。 あ~もう少しやりたかったと思うのはいつものこと。 母親の顔になって、学校の話を聞いたり宿題の国語の本読みに付き合ったり。 夕飯を食べさせて、台所を片づけて、さてもうひと頑張りしようかなと思っていると、「ただいま」ああ、夫が帰ってきた・・・。 いつも遅いのにこういう時はナゼか早いのよね、と思いつつご飯の支度。 主婦の自由になる時間は家族の都合次第だなぁと思う瞬間。 (夫の名誉(?)のために付け加えると、割と理解はある。 家事能力がも少しあればとおもうのはないものねだりかな?)

納期が迫っている時は、なかなか時間が取れないというのは結構ストレスになる。 だからといって、「今日のご飯は無し!」と言えないのが辛いところだ。 買い物に行く時間すらも惜しい。バーゲンに気軽に行けると思ったのは甘い、甘い。 目の毒だから新聞の折り込み広告さえ見ないようにしている。

時々「もうヤだ!!」と爆発しているが、その度に家族の理解が増すようで、状況は徐々に変わっている。 しかし、何だかんだと言っても月日は流れ、子育てのブランク後の再開から5年近い歳月が経った。 その間、たくさんの人達の理解に支えられてきた。あっちこっちでぶつかりながら、たくさんの人に支えられながら、 それなりに生きている、幸せな人生だろうと思っている。

皆様よろしくお願いします。

(2000年10月掲載)

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